紫がかった深い青色、
群青(ぐんじょう)色。
古くから日本画に用いられた色で、
高価な鉱物を砕いて作られていたため、
宝石に匹敵するほどの貴重な色とされていた。
子どもの頃、16色のクレパスのなかで
「ぐんじょういろ」は、
直感的にわかりにくく、語感が重く、
気軽に使えない気がしていた。
深くて美しい
好きな青色なのに。
改めて調べてみると、
「群青」とは、
「青が群れ集まる」
という意味からこの名になったという。
“群れる、集まる”
というと、こんなにも重厚感が増すものか
とも思う。
「旅は、誰かと行くよりも、
一人で行くほうが
出会う人の数が多くなる」
とは、友人の言葉。
たしかに一人だと、
まわりに目をむけ、心を向けて、
さまざまな発見や、
出会いがあって、
手を差し伸べたり、差し伸べられたりする。
道に迷ったり、困りごとがあれば、
知らない人に声をかけたりして、
思わぬ親切に感動することもある。
一生のうちで、
私は何人の人と出会うだろう。
よい出会いは、
時間の色を深く美しい色に染めてくれる。
だから、心がけたいのは、
さりげない言葉の色。
誰かと話すとき、その言葉は、
やさしい色になっているだろうか。
言葉の数は、歳とともに増えてゆくけれど、
増えれば、増えれるほど、
重ねれば、重ねるほど、
伝わらない苛立ちを感じることも多い。
そう思うと、親しい友人との
楽しい時間と同じくらい、
一人の時間も大切にしなくては、と思う。
一人の時を大切にし、
いい色でいなければ、
集い、群れた時の色も、
美しくならない。
考えること。
人のことを想うこと。
それをきちんと言葉にすること。
そのために、たくさんの想いを味わい、
言葉の痛みやぬくもりについて
向き合う時間が必要なのだ。
傘のなかは、たいてい一人。
もの思うのに、ちょうどいい。
なかなか晴れない梅雨空の雨雲は
大きな鉱石のよう。
その雨雲が砕けて散った
雨粒がつくる景色は、
群青色のパレット。
雨に濡れた舗道には
群青色の街が
さまざまな色をにじませている。
一人だから
見つけられる色もある。
心の中の、ほの暗く重い鉱物を
どうすれば、砕けて美しい
群青色にすることができるのか…。
そんな思いをめぐらせながら、
やがて晴れる青空を思い、
「なんとかなる」と信じるのも、
雨の日の愉しみ方かもしれない。